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寳祐山
              大法寺 近代の歴史

 

大法寺歴代上人の歴史について残念ながら多くの資料は無く、数少ない記録を辿りここに少しばかり紹介させて頂きます。

現在の住職、岡部光謙上人は歴代27世となるが、岡部姓が継承するのは24世岡部乾淨上人(観境院日澄上人)より始まる。

 


 

■岡部乾淨 (おかべ けんじょう)上人(24世 観境院日澄上人)

明治8年、徳島県にて出生。 在家の出身であった。
出家し僧侶となり、樺太へ渡り布教。

大正7年に南樺太豊原郡豊原町に布教所を設立する。

時期は不明だが、田中ウンと結婚し樺太で生活をする。

八王子大法寺への入寺の時期と経緯も不明だが、大法寺24世の住職として法灯を継承する。


命日 昭和8年5月19日

 


 

■岡部乾洽 (おかべ けんこう)上人(25世 岱愚院日蕉上人)

明治40年、樺太にて出生。

昭和8年、師父乾淨上人が遷化し、大法寺25世として法灯を継承。

昭和20年8月、八王子空襲により本堂、庫裡を全焼、焼け野原となる。

上人は燃え盛る本堂から、祖師像(現在では准宗宝に認定)大過去帳を抱え、浅川 へ避難。
大法寺の歴史的遺産はこの2点のみである。

昭和26年、本堂 兼 庫裡25坪を建設。

昭和32年、弟子光恵上人に住職を譲る。
終戦後は住職と兼務する形で、府立一中(現在の府中第一中学校)の国語の教師となり定年まで勤務。


命日 平成6年9月23日(享年87歳)

 


 

■岡部光恵 (おかべ こうえ)上人(26世 觀照院日慧上人)

昭和7年、八王子市上野町にて出生。

昭和8年、祖父乾淨上人が遷化。青春時代は太平洋戦争下であった。

立正大学大学院在学中、富士森高校で国語の講師を勤める。

卒業後、同大学にて国文学の講師となる。

昭和32年、大法寺26世として法灯を継承。

昭和40年、八王子市より都市計画・区画整理事業の為移転の申し入れあり。
当時の総代・世話人の尽力と光恵上人の采配のもと移転の地を現在の鑓水と定め、霊園開設を決議する。

旧檀家墓地の移転を開始し、乾洽上人は上野町に光恵上人は鑓水におり、大学に勤めながら移転に尽力する。

昭和43年3月、仮本堂・庫裡が完成。乾上人夫妻も鑓水へ引っ越し、祖師像を遷座、 大法寺の移転を完了し、「まや霊園」 を開設。

上野町の本堂、山門等の一部は他寺へ移築され、跡地は道路を拡張し公園となっている。
移転後は建物の建築と墓地の造成の日々が始まる。 当時、16号線に人通りは少なく、柚木街道は舗装すらされていなかった。

水道もきておらす、水道がとおったのは平成6年である。 当時を振り返ると、霊園事業の見通しはきかず、毎日が精一杯であったという。

平成6年9月、師父乾上人遷化。 そのわずか4年後、多くの発想と計画を実行し、自身が設計にも携わり精力的に取り組んで来た
客殿の着工前に遷化。


命日 平成10年3月11日(享年66歳)

 


          

 

■岡部光謙 (おかべ こうけん)上人(現住職)

昭和45年2月、八王子市鑓水にて出生。

平成4年立正大学仏教学部宗学科を卒業。

平成10年3月に師父光恵上人遷化。

同年6月、大法寺27世として法灯を継承。28歳で住職に就任する。

亡き師父の意思を継ぎ、墓地造成、庫裡建築、客殿建築を完成させ、 平成13年9月客殿完成の落慶法要を厳修する。

これで現在の大法寺の外観全てが完成する。

平成19年3月本堂の改修。

平成21年5月、摩耶供養塔落慶式を厳修する。

 


 

大法寺は開山以来、移転を3度している。
現在の大法寺があるのも諸天善神の御加護と、先師先哲の専心努力の賜物である。

400年以上の法灯を、この先未来永劫絶やすこと無く灯し続けることが現在、我々の使命である。

簡単ではあるが、数少ない記録と近年の記憶による当山の歴史をここに振り返る。

平成24年 5月 吉日